雑誌 マリオネットより
昭和五年 十月二十日 郷土演劇協会発行
尚私は子供の為の人形芝居に就ても、多くの關心を持つてゐる。之れまでに蒐集し、友人の助力を借りて讀了した世界各國の脚本も既に數十種に及んでゐる。然しその八分までは私を満足させなかつた。殊に幼い者の為に先覚的に新人形劇を執筆したと稱する偉さうな作品に子供に『教へよう』とする意識の強過ぎるものゝ多いのには一驚した。教へられるべき多くのものを持つてゐるとしても、大人が子供に教へ得るだけのものを持つてゐると云ふのだ。大人が子供に對して許されてゐる最大のものは、子供のよりよき成長に對しての手助けに盡きる。それを自覚せずして『教へよう』と専心する事は、世の多くの、賢明らしく見える世俗的なる常識家としての親馬鹿に等しい。
前述の新作家が同様の愚劣さを繰返すのも、一面はその無自覚からであり、反面、又、子供を馬鹿者視すると同様に基く、子供らしさと云ふ人形芝居に對する傳統的概念に支配されてゐるからであらう。換言すれば、大人にとつて、時に幼稚極まるものであつても、子供たちにとつては叡智的幻想(インテレクテユアル・イマヂネイション)に耽り得る唯一の、一生懸命の、對象物であり、時には最も美しい感覚の世界である事を知らないからであらう。若しそれを自覚してゐるなら、教へようとするが如き冒涜的行為を恥じて、あくまで天心童心に満ちた、純潔な素朴な、人形を作ると共に、それを、子供と樂しむ、為の努力をせずにはゐられないであらう。
私達のうちで、この童心に還つたものだけに、この世界の美しさを眺め、其処に住む事を許される。負け惜みの強い大人達は、そこで、自分の生命力を溌溂と生す為には、時に、洗練された阿呆を樂しむ必要を痛感するであらう。もしまた、それが心ある人々であつたら、その『無』にも等しいものゝ中に、無限の有の存在することに驚きの眼を見張るであらう。こゝに童心味に生きる人形芝居の尊さがある。珠玉は何時如何なる所にも、轉つて(ころが)ゐるのだ。若し諸君が野心的な努力の徒労に目覚めて、美しく共に樂しむ事の出来る、清らかな濁りない心持さへ持つたなら…。
0コメント